米国大学院で受けた衝撃:成し遂げたいことは「寄付」で実現してもいい

米国大学の「キャリア」の授業

米国大学院留学時の「キャリア」の授業。所属先からの派遣だった私に転職の意図はなかった(あると、ややこしいことになる)ので半分リスニングの耳慣らしくらいのつもりで参加したが、キャリアチェンジ目的の学生が大層の中で授業自体は一種の熱があった。

成し遂げたいことは実現方法とセットで考える

授業の冒頭、先生は「自分の人生で成し遂げたいこと」を書き出すよう指示。「リストの項目を比較させ、最優先に近い職業を選ぶのだろう」と私は思った。しかし、次に先生が指示したことは、それぞれの「実現方法」を書き加えることだった。

例えば、「環境問題の解決」がリストにあれば、方法としては、①政府で環境政策に関わる、②環境NGO に入る、③環境団体に寄付するなどなど。私にとっては、③は、あまりない発想だった。「成し遂げたいこと」があれば、それは当然「自分がやるべきこと」という思い込みがあったのだ。

日本では、「自分でやることに意味がある」

日本にはそもそも寄付行為が欧米ほど浸透していないこともあるし、株式会社のあり方を見ても、運営を他人に任せつつ、意見を言って動かす、ということに不慣れな部分がある。「他人任せ」ではなく、「自分でやること」に価値を見出す価値観がある。おそらく、多くの日本人にとって、「環境問題」に強い関心を持つ学生が、それは寄付で済ませて、寄付するために、給料のいい外資系金融機関で働く、というのは違和感があるのではないかと思う。

どちらの価値観が正しいということではないが、私のような日本人は、「重要なこと」=「自分でやるべきこと」と思い込んでしまっている可能性がある。

「やりがい」で無自覚に一括選択していないか

また、そうした発想だと、「自分でやる」という選択をする際に、実は、そのことが重要かどうかという観点だけで判断していて、実は「重要なこと」に関わるということだけでなく、その職場での働き方(給与、時間の使い方、人的ネットワーク、気力・体力の使い方・チャージ、レピュテーション・シグナリング)全てを一括同時選択していることに無自覚である可能性がある。

特に「環境問題」に限らず、世間における「善なるもの」を関心事とする場合、それが受け入れやすいものがあるがゆえに、その「働き方」を吟味することなく、無自覚に選択している可能性が高い。逆に、世間からすると「?」という反応がなされるものである場合は、逆に、その他の要素も考慮した上で選択している可能性が高い。

もう一点。先生は、「全て叶えること」を前提にしていたわけであるが、それは、全て同時にと言うことではなく、これは若いうちに、これはお金が貯まってから、という風に時間軸の上で捉えるよう指導していた。最近は「人生百年時代」と言われ、複線的キャリアが受け入れらるようになっているが、当時は小さな驚きであった。

こんなきっかけも、「キャリア」ってなんだろう、と漠然と考え始めたきっかけだった。