時間切り売りビジネス

買い物代行、運転代行(Uber)、入力作業代行、情報収集代行(空き家状況、台帳、不審者情報)、通訳代行・・・「代行」アプリは、それぞれ細々として点在していたニーズへのアクセスをITで飛躍的に高めて、個人の24時間の空き時間で埋めることを可能にする。

人口減少(特に働き手人口の減少)に直面するなかで、24時間 per personの効率性を高めることは社会的にも求められている。確かに。

これまでは、そうした点在ニーズをある程度まとめることで、ビジネスとして成り立ったので、そのエージェント機能は、需要側・供給側が集中する都市部に集中し、結果、年の価値をさらに高めてきた。しかし、もし、点在ニーズを「点在」させたままにできるのであれば、都市にいなくても需要し供給することが可能になるかもしれない。

1点目。価格設定の二重性について。こうしたサービスが社会的に注目されているのは、購入する側から見たときの「お得感」がある。本来得られなかったであろう収入であり、「お小遣い」だから、安くてもやる人が大量にいることに立脚している。従来のシステムであれば、一定の価格を払わないとお願いできないことが、サービスの供給側にとっても本来得られなかった収入であるので、相当安価にお願いできる。これ自体は悪いことではないが、全体を見た時に何が起こるのか。一つの家計で見ると、例えば主たる働き手が定職につき一定の収入を得、パートナーが主に家事に従事しているとする。パートナーは、「代行」業によりいくばくかの収入を得ることで家計にはプラスになる。しかし、こうした「代行」業は、従来のシステムで一定の価格を払うこでで供給されていたサービスの価格を急激に下げる。すると、主たる働き手の給与は「代行」基準の価格に近づいていく。主たる働き手の従事する仕事によるが、例えばタクシー運転手であればその影響は顕著だ(主たる働き手はAIやロボットからも同様のプレッシャーを受けていることが想定される)。

2点目。社会の二重構造化について。こうしたサービスの担い手は誰か。最初期は物珍しさもあるだろうが、一件数百円というような作業代行を、ある程度の収入のある人間が行うだろうか。「代行」の供給者は家計収入の低い層が担う。そして、「代行」によって小銭を稼ぎ続けている限り、その状況から抜け出すことは多くの場合難しいだろう。「代行」で求められる作業が基本的には「誰でもできる」×「大量」であることによって成り立つからだ。したがって、「代行」は所得層の固定化を導く可能性がある。現行、政府が管理する税を中心とする所得再分配機能が、お金の出し手が具体的に欲しているサービスを受けられるという特典付きで、行われると見れば合理的と見えなくもない。「代行」とはふるさと納税の返礼品のようなものともみなせる。

AI万能論の陥穽

3度目のAIブーム。曰く、「人間の役割を代替していく」。「2045年には人間の知能を超える」。受け止め方(ポジ/ネガ)は人によるが、既存の技術をAIと組み合わせることによって、新たな課題解決の可能性が広がる、という点は広く共有されているようだ。

私も、その方向性自体は否定しない。ただし、気になるのは、AIの現在地点がどこにあるのか、その上で、いつまでに何が起こるのかを正確に理解された上で議論をされているか、だ。例えば、「AIを使えばいい」「AIによって解決できる」といった類の論調には、AIの現在地点に対する関心が薄いきらいがある。

 

先日、Botを使った支援ツールの開発者に話を聞いた。かくいう自分もAIの仕組みや現在地点を正確に把握している人間ではなかった。AIの機能を理解するために、まず「物事の解決」の具体例に沿ってみてみよう。極めてシンプルな例として、子供が何かを求めて、その答えを探すシーンを思い浮かべてほしい。

子供:「お腹ついた・・・」

親:「お腹すいたね。クッキー食べようか」

これをAIに置き換えると、

①「お腹ついた・・・」から、「空腹である」ことを認識。

【AIが自然言語の揺らぎを補正】

②「空腹である」場合の解決策として、「クッキー」を特定。

(1)【if"空腹である", then "クッキー"】

(2)【if " 空腹である", then "X" (データベースより抽出)】

 

巷で言われているのは、(2)のようなデータベースから答えを抽出するAIであり、しかもその過程を通じて、その精度を高めていくというものだが、実際には精度の高い答えを出すには、(1)のような形で事前にプログラムされている方が効率的である。また、精度を高めていくには、出した答えに対するフィードバック(○×)のプロセスが必要である。

 

結論から言うと、現時点での多くのAIは、①の部分、質問をデータベース上のQのうちのどれに一番近いかを特定することに使われているので、自律的に答えを探したり、その精度を高めたりはしない。したがって、なんらかの課題を投げ込んだら、自律的に成長していくというのはかなりミスリードだ。

 

この点を理解しないと、ものすごいスピードであらゆる課題が解決されていく、人間が不要になっていくという誤解を招く。

自走できるか

成長とは何か:基礎スキルと聞く・理解・再現

就職活動で多くの人は「成長したい」という。「成長」とは何か。①基礎的なスキル(職場の基本ツール、職場の言語、数字などが使える)に加えて、②人から聞いて・理解して・再現する(書く・話す)ができるか。多くの就職活動で見られているのは、②。実際、同じ職場で働くときには、指示をされたことを理解し、関係者と話し、受けた指示通りに物事を進める、ということが日常的に起こるからだ。職場毎の②の性質に応じて、①も変わってくる。例えば、半分外国人の職場であれば、会計事務所であれば、そので聞いて・理解して・再現するのに必要な基礎的なスキルも異なるのだ。

自走できるか:道筋付けとリソース確保・工程管理

その上で、「次」の段階は何かといえば、「自走できるか」だろう。①上司から受けた方向性を踏まえて、「解決」まで持っていけるか。これは、道筋を理解する問いを適切な相手に適切な言語で行い、その道筋に沿って必要なリソースを調達しながら、工程管理しながら進めていくことだ(線表を引いて管理するなど)。その際、上司に報告すべき情報の取捨選択を、上司の性格・状況や案件の特性などから判断できるかどうか+αの要素だ。

「自走」の次

「自走できるか」の次は、課題そのものを自ら見つけられるか、また、自らの組織上の守備範囲を超えられるか、というのは「次の次」だ。もちろん、自分PJであるから、そういうPJをやらせてもらえる環境・関係を整えること、外部環境やそこから生じるリスクの把握と対応(内外のヘルプデスクの確保も)も付随してついてくる。内外の応援団作りなんかもついてくる。

成長の糧:ストレスをプレッシャーに

ストレスとプレッシャーは違う

ストレスとプレッシャーの違い。重要なことには、大小さまざまなストレス・プレッシャーがもれなくついてくる。「仕事」はその代表例だろう。

そのストレスとプレッシャーをどう捌けるかが結構重要だったりする。ストレスやプレッシャーとうまく付き合えない人は、その人の能力ややる気にかかわらず、心身ともに消耗してしまったり、大事なプロジェクトを妥協したり、場合によっては投げ出したりしてしまう。

違いと上手な付き合い方

ストレスやプレッシャーとの上手な付き合い方とはなんだろうか。思うに、まずは、ストレスとプレッシャーをきちんと区別することが大事では無いだろうか。ストレスとは、「何をどうしていいかわからないが、ただ苦しい」状況から生じるもの。解決への道筋が見えない、頼るべき人もない、そもそも対象に対するコントロールも持たない、といった状況。「途方も無い」状況。他方で、プレッシャーは、解決への道筋は見えている、コントロールは自らにある、やること・やるべきことは見えているが、その実現のハードルが高いという状況から、「できるだろうか」「できなかったらどうしよう」という形で感じるもの。この両者の違いを理解し、今自分が直面しているのがストレスなのかプレッシャーなのかを把握できれば話は早い。

ストレスは、まず道筋を把握してプレッシャーに

仮にそれがストレスなのであれば、解決に向けた道筋を整理することだ。上司の指示をきちんと正すことも一つかもしれない、第三者から客観的に問題の所在を特定してもらうのも一つかもしれない。そうして、「何をすべきか」が把握できれば、ストレスはプレッシャーに変わる。プレッシャーになってしまえば、やることははっきりしている。あとは、自分の能力やキャパシティでできることとできないことから見て、できることとできないことを分けて、できないことは、外部のソースを頼る。

上司としてのアプローチ

これは、周りの問題でもある。部下にミッションを与えて、「頑張れ」という檄だけ飛ばすのは、部下がストレス段階(何をすべきか見えていない)にいる場合は、何の解決にも支援にもなっていない。その段階では、「何をやるべきかわかっているか?」という問いかけが必要だ。部下がプレッシャー段階(何をすべきかはわかっているが、実現へのハードルがある)に直面しているのであれば、「どういう段取りで考えている?」「いつまでに何をやろうとしている?」「誰に何を頼もうと思っている?」という問いかけが必要だ。上のような問いを自ら立てて、進めていけるような部下であれば、定期的に状況を把握し、温度管理だけしておけば良い。これは、部下のためというより、責任者である自分として把握しておくべきという意味で、である。

ストレスをプレッシャーに変え、モチベーションに

このように、ストレスとプレッシャーを区別し、その段階に応じて対処することが、「資源」たる気力・体力をすり減らず、成果を上げていくことにつながる。また、プレッシャーに対して、きちんと対処できるようになれば、プレッシャーは、重要なミッションに主体的かつ能動的に取組んでいることを実感させてくれるものであり、自らのモチベーションを高める、気力・体力に対するサプリメントと考えてもいいだろう。

「類比・例え」の守備範囲

類比・例えを用いた手法

「わかる」ということについて、すでに「わかっている」ことに置き換えることができた時に「わかる」という説明がある。似たような発想として、物事を考える、なんらかの気づきを得る手段として、類比(アナロジー)を使うことを推奨する人もいる。他の事象に活用可能な原則・理論に気づくために、異なる対象の共通点を見つけることを方法とする人もいる。

これらは、考え方としては似た発想に基づいている。つまり多少の差異はあるにせよ、パラレルに存在する二者の類似性を起点に、①既知の一方に対する理解を用いて未知の他方を理解する手法、②既知の一方に存在する関係性に着目して、未知の他方に存在する関係性を推定する手法、③複数の関係性の中に共通する普遍性を探ることで、多数に通用する普遍性を持った関係性(原則・理論)を導こうとする手法だ。

類比・例えは、証明にはならない

こうした手法には非常に有用であるとともに、一点留意しておくべき点がある。それは、方法論としては、いずれも有効であるが、②③の場合に示そうとしている関係性なり普遍的な関係性の証明にはならないという点だ。

例えば、②についていえば、「ローマ帝国は栄華を極めた後、滅びた」ことを持って「経済大国である米国は、滅びる」ということはいえない。③についていえば、「ローマ帝国」に「漢帝国」や「モンゴル帝国」の例を加えても、「栄華を極めた国は、滅びる」と言うことはいえない(直感的にいえば、栄華何如にかかわらず、歴史という時間は一国が存続し続けるには長すぎる。)。

類比・例えは、あくまで理解の助けや説明の面白さに止める

だとすると、物事の正しさに誠実であろうとするのであれば、類比や共通性は、物事の理解の助けや、例えの面白さとして用いるに止めるのが適切である。

人生のタイミング:心のドアが開くとき。

人の心が開く時はいつか

「全館無料開放」。新しくオープンした施設などは、宣伝の意味も込めて、料金を取らずに無料開放ということがある。今回は、人生において、心が開くときはいつか、である。

人脈作りは成功の鍵

人生を生きる上での「資源」(時間・金・人脈・気力・体力)の一つである「人脈」。海外留学の一つのモチベーションは「人脈」であったりする。実際に、大学側も学生の「ネットワーキング」を積極的に応援している。

人脈作りに適当な「場所」と「タイミング」

しかし、「人脈」作りには適当な場所とタイミングがある。場所は、その目的に近く、かつ、自分との適度な共通点と相違点を持つ人脈が集まるところだろう。例えば、金融業界で働く上での人脈を築きたいという人にとっては、金融に関心のある人脈ことは必要だろう。共通点は、親近感なり共通の話題につながり、関係を深めるきっかけになる(例えば、出身大学や共通の友人など)。他方で、全く同じような人間では人脈の価値は薄まる。多少違う人間である方が、あとあとお互い力になる確率は高まる。

次に、タイミングである。金融業界で新しいビジネスを始めようとしているあなたの前に、金融に関心をもち、同じ大学出身、ただし、自分と違ってより金融規制に近い世界に身を置く人間がいるとする。間違いなく重要な「人脈」になりうる人物だ(自分より10歳上で人脈も視点も自分にないものを持っているならなおいい)ただ、その人との出会いが、電車でたまたま隣り合わせただけだったら。もう少しましな例で、業界の会合で同席した場合、但し、多くの取り巻きに囲まれている場面だとしたら。答えは控えめに言ってもNOだ。

新しい環境は、「いい人」をうむ

しかし、例えば、同じマンションに入居してきた時だったら。初級中国語のクラスに一人参加して隣に座った時だったら。おそらくタイミングとしてはずっといいだろう。というのも、人間というのは、新しい環境に置かれると自然と「インプット」を受け入れるくせがついているし、新しい「インプット」優勢下で、無意識のストレスを解消する術として、完全アウェーの状況を打開するため、たわいもない会話を許容する「いい人」になる傾向にある。

大学の入学式を思い出して欲しい。そこで隣に座ったとびきりの美人に話しかけたら、きっと相手をしてくれる(少なくとも、彼女の席の反対側にとびきりジョークのうまい奴が座るまでは)。就職の面接会場で隣に座った素敵な彼は、同じ大学出身というだけで、きっと優しい(大学2年生のキャンパスで会っても振り向きもしなかったかもしれない)。これはひとえに、人間が慣れないストレス環境で、本能的に対処した結果だ。

魔法の時間は終わる

しかし幸せな時間は続かない。もしあなたが、不幸にも合格発表に浮かれるあまり階段から転げ落ちて、4月をまるまる棒に振ったとしたら。桜も散って、新入生がそれぞれ入る部活やサークルが決まってしまった5月になって、友達を探そうとしても、きっと門はすでに閉じている。あなた以外の新入生は、今後4年間キャンパスで平穏に暮らすために必要な数名の友人をすでに確保しているのだ。あなたの退屈な話に付き合う必要なもはやない。

ここで言いたいことは一つ。ストレスを感じる大きな変化の時期には、あなたの周りもあなた同様のストレスを感じている。そして、それは彼らが心のドアを開いているタイイングなのだ。話し掛けよう。入学式で。就活会場で。留学オリエンテーションで。話しかけただけで、あなたには相手を振り向かせるだけの価値があるのだ。

人生を生きるアスリートとしてのメンテ③:インプットとアウトプット

「インプット」と「アウトプット」のバランス

気力・体力を保つ上で、必要なのは、睡眠と栄養に加えて、「運動・発散」という話を書いた。これは社会人1年目の時に気づいたことだが、今ではもう少し広く捉えている。最近は、「アウトプット」こそ大事という本をちらちら目にするが、今回は、人生を生きる上での「インプット」と「アウトプット」のバランスについて書きたい。

「インプット」が加工・変換されて「アウトプット」に

まず、「インプット」とは何か。それは、知識なり情報なりを自らに組み入れいく行為全体を指す。授業しかり指導しかり読書しかり。動作で言えば、聞く・読む。「アウトプット」とは「インプット」した情報を自分の中で加工・変換して外に吐き出す行為。出し手としての授業、指導、執筆。プレゼンからおしゃべりまで。ブログやツイッターもそう。動作で言えば、書く・話す。少し広く捉えれば、「表現する」。必ずしも口を動かす必要はなく、外部に対してなんらかの影響を与えるものを全て「アウトプット」と捉えることも可能だ。

人生の時期によって変わる「インプット」と「アウトプット」のバランス

その上で、人生には、「インプット」が多い時期と「アウトプット」が多い時期がある。まず、生まれてすぐは、圧倒的に吸収がメインだ。次第に、言語を発するようになるがまだまだ「インプット」優勢だ。次第に話し言葉や文字も覚えて「アウトプット」が質量ともに増えてくる。しかし、この時期は同時に「インプット」が爆発的に増えてくるので「インプット」優勢だ。

新しい環境では「インプット」が優勢に

人生の前半期は、「インプット」優勢が続くわけだが、実は人間は新しい環境に入ると「インプット」が爆発的に増える傾向にある。生まれたて、入学後、移住後、就職後しかり。当たり前といえば当たり前で、新しい情報を消化するのには時間がかかるのだ。

「インプット」優勢がストレスを生む

新環境では、当面「インプット」が続くわけだが、新しい環境で強いストレスを感じたことがないだろうか。急に日記を書き出したり(多くの場合、新品を買って、3ページ以降は永遠に使われない)、たわいもない会話を出来る友人ができて気が休まったり。これらは、実は「インプット」優勢期のストレスの表れではないだろうか。

人は新環境で「インプット」優勢期を経験するが、「インプット」優勢は、多くの人にストレスをもたらす。人間は、常に「インプット」と「アウトプット」のバランスを保ちたい生き物なのだ。マズローの承認欲求を、私は、「インプット」に見合った「アウトプット」への欲求と読み替えている。SNSの隆盛は、その一つ。

大事なのは「インプット」に見合う「アウトプット」の量と質

社会人でも若いうちは中身がないから「当たり前」と受け入れられても、次第に「インプット」優勢が続くとしんどいものだ。皆さんは、「インプット」したものを「アウトプット」する機会をバランスよく持てているだろうか。まずは、回数と分量として持っているかどうか。そのあとは、次第にその質も重要になってくる。「アウトプット」が多くの人に影響しているか、ポジティブなものか、自分にとって価値あるものと関係しているかといったものが「アウトプット」の質を決める。

仮に今の職場(・家庭)に、十分な「アウトプット」の場がないならば、兼業・副業(収入の有無はここでは本質的ではない)や課外活動でそれを持ってみるということもいいかもしれない。