人生を生きるアスリートとしてのメンテ②:気力・体力の維持には、睡眠と栄養と「発散」

人生マラソン:気力・体力の循環

「金は天下の回りもの」という言葉がある。経済というのはお金が回っているから活気をもつ(偉大なる我が母は、思い切った買い物をするときには、ほぼ「don't mind!」と同義で使っていた)。さて、人生というマラソンは「選択の連続」、「選択」とは「資源」(すなわち、時間、金、人脈、気力・体力)の出し入れの選択だ、という話を書いた。今回は、特に「気力・体力」について、「金」同様、よく循環しないといけないという話。

社会人生活で環境は激変。ストレスの塊

「うつ」や「メンタルヘルス」という事が言われて久しい。私の周りにも、自由な大学生活から、定時出社、ふた回り上の先輩などなど、ストレス要因が増す社会人生活に入って、悩みをもつ友人もいた。当時は、残業も多く、平日は忙しさゆえ3食コンビニ飯なんてこともあり、睡眠、栄養面で何かと不足がちと言う友人が多かった。金曜深夜に帰るとなだれ込むように布団に入って気づいたら土曜の夕方というパターン。彼らがいうのは、「何しろ寝たい」。今でも似たような若い人は多いのではないだろうか。

実は大事な運動・発散

そんな方にいいたいのが、休日の過ごし方。完全に個人差のある話なので、実際のやり方は人それぞれだと思うが、辛い時こそ、睡眠・栄養に加えて、運動・発散にも目を配るということが意外に大切だと思っている。人間は、汗をかく、体力を発散するという欲求を持っている。それが、睡眠を優先するばかりに満たされないことのストレスが、意外に侮れない影響を持つこともある。

人生を生きるアスリートとしてのメンテ①:人生は資源配分の連続

人生の選択を支えるのは、「資源」

「人生は選択だ」と言われるが、選択を支えるものは何か。それは選択を可能にする、各人が持つ「資源」だ。そして、選択の結果は何か、それは、「資源」の獲得又は喪失だ。

時間、金、人脈、気力・体力

ここでいう、「資源」とは、言い換えると、時間、金、人脈、気力・体力(エネルギー)。人生には時に大きなチャンス(ピンチ)がある。「よし、留学しよう」「起業しよう」「政治家になるぞ」「結婚相手を探そう」。もし、あなたの24時間が仕事で埋まっていたら。貯金がなかったら(借りる相手もいなかったら)。相談する相手や手伝ってくれる仲間がいなかったら。そもそも、心身のバランスを崩していたら。あなたの選択は、選択の前にすでに破綻している。

それを明確に意識している人は多くないだろうが、何かを選択するとき、事の大小を問わず、結果として、自分の「資源」の何かを差し出して、その代わりに、なんらかの「資源」を手にしている。

人生の選択で変わる「資源」のバランス

そして各資源のバランスは、人によって違う。人生のステージによっても違う。そして、繰り返される選択によって変わる。牛丼屋に入るか、行列の店に並ぶか、昼食を抜くか。それは、各資源の出し入れに実は影響している。人生における大きな選択(「入学(留学)」「就職(転職)」「結婚(離婚)」「高額の買い物」など)はその影響が比べようもなく大きい。

人生の選択を可能にする「資源」ポートフォリオを組む

必ずしも、綺麗にバランスの取れた「資源」ポートフォリをが正解ではないが、あなたが仮に将来やりたい事があるとしたら、その時点までに、それを可能にするポートフォリオを作るには、各選択でどのような選択をするべきなのか。そんな事を考えてみるのも面白いのではないだろうか。

米国大学院で受けた衝撃:成し遂げたいことは「寄付」で実現してもいい

米国大学の「キャリア」の授業

米国大学院留学時の「キャリア」の授業。所属先からの派遣だった私に転職の意図はなかった(あると、ややこしいことになる)ので半分リスニングの耳慣らしくらいのつもりで参加したが、キャリアチェンジ目的の学生が大層の中で授業自体は一種の熱があった。

成し遂げたいことは実現方法とセットで考える

授業の冒頭、先生は「自分の人生で成し遂げたいこと」を書き出すよう指示。「リストの項目を比較させ、最優先に近い職業を選ぶのだろう」と私は思った。しかし、次に先生が指示したことは、それぞれの「実現方法」を書き加えることだった。

例えば、「環境問題の解決」がリストにあれば、方法としては、①政府で環境政策に関わる、②環境NGO に入る、③環境団体に寄付するなどなど。私にとっては、③は、あまりない発想だった。「成し遂げたいこと」があれば、それは当然「自分がやるべきこと」という思い込みがあったのだ。

日本では、「自分でやることに意味がある」

日本にはそもそも寄付行為が欧米ほど浸透していないこともあるし、株式会社のあり方を見ても、運営を他人に任せつつ、意見を言って動かす、ということに不慣れな部分がある。「他人任せ」ではなく、「自分でやること」に価値を見出す価値観がある。おそらく、多くの日本人にとって、「環境問題」に強い関心を持つ学生が、それは寄付で済ませて、寄付するために、給料のいい外資系金融機関で働く、というのは違和感があるのではないかと思う。

どちらの価値観が正しいということではないが、私のような日本人は、「重要なこと」=「自分でやるべきこと」と思い込んでしまっている可能性がある。

「やりがい」で無自覚に一括選択していないか

また、そうした発想だと、「自分でやる」という選択をする際に、実は、そのことが重要かどうかという観点だけで判断していて、実は「重要なこと」に関わるということだけでなく、その職場での働き方(給与、時間の使い方、人的ネットワーク、気力・体力の使い方・チャージ、レピュテーション・シグナリング)全てを一括同時選択していることに無自覚である可能性がある。

特に「環境問題」に限らず、世間における「善なるもの」を関心事とする場合、それが受け入れやすいものがあるがゆえに、その「働き方」を吟味することなく、無自覚に選択している可能性が高い。逆に、世間からすると「?」という反応がなされるものである場合は、逆に、その他の要素も考慮した上で選択している可能性が高い。

もう一点。先生は、「全て叶えること」を前提にしていたわけであるが、それは、全て同時にと言うことではなく、これは若いうちに、これはお金が貯まってから、という風に時間軸の上で捉えるよう指導していた。最近は「人生百年時代」と言われ、複線的キャリアが受け入れらるようになっているが、当時は小さな驚きであった。

こんなきっかけも、「キャリア」ってなんだろう、と漠然と考え始めたきっかけだった。